倫理学


by rinnrrigaku
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道徳は心の問題である

 かようにして人間は役割における人間であると同時に人格である。道徳は人格的関係であるといっても、人格的関係は役割の関係から抽象して考えられず、逆に役割の関係は同時に人格的関係であって道徳的である。役割における人間として我々は有能でなければならず、人格として我々は良心的でなければならぬ。しかも二つのことは対立でありながら統一である。我々の役割は社会的に定められている、役割はつねに全体から指し示され、全体と部分との関係を現わしている。職能的人間として我々は社会から規定されている。従って人間を単に役割における人間として見てゆけば、社会と個人との関係は全体と部分との単に内在的な関係となり、個人の自由は考えられないであろう。その場合、個人は社会にとって有機体の器官の如きものとなり、単なる手段として存在するに過ぎなくなるであろう。しかし人間は人格である。人格として人間は自由である。彼の自由は彼の存在の超越性において成立する。人間は社会に単に内在的であるのでなく、同時に超越的である。我々は社会のうちにありながら社会を超えている、我々が単に民族的でなく同時に人類的であるというのも、その意味である。社会からいえば、社会は個人に対して単に超越的であるのでなく、同時に内在的である。社会は我々の外にあるのでなく我々の内にあるということができる。しかしながら、真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ、それは外なるものよりもなお外なるものとして真に内なるものであるのである。我々の内なる人類というものは単に主観的なものでなく、真に外なるものとして最も客観的なものでなければならぬ。それは抽象的普遍的なものとして考えられた人類でなく、却って人間の存在の根拠としての世界でなければならぬ。従って我々は人格として社会を超えるといっても、個人的非社会的であるということではない。我は汝に対して我であり、我の存在根拠であるものは同時に汝の存在根拠であることなしには我の存在根拠であることもできぬ。しかも真に内なるものは真に外なるものであり、外なるものを離れて内なるものがあるのではない、現実の世界とは別に世界があるわけではない。世界は自己形成的世界である、世界は世界を作ってゆく、人間は創造的世界の創造的要素である。我々の役割は単に社会から書いて与えられているのでなく、他方我々自身が自由に書き得るものである。言い換えると、それは社会的に定められていると同時に我々自身の定めるものである。我々は社会から限定されると共に、逆に我々が社会を限定する。我々は社会に働きかけ社会を変化することによって自己の役割を創造してゆかねばならぬ。我々の職能は固定的なものでなく、歴史的に、言い換えると、主観的・客観的に形成されるものである。役割における人間として我々は社会にとっての手段であるとすれば、人格として我々は自己目的である。人間は自己目的であると同時に手段であるという二重の性格のものである。
 さて右に述べたように徳と技術とが結び付いているとすれば、徳と知との結合はおのずから明瞭であろう。すべての技術は知識を基礎としている。行為が技術的である限り、行為における発展は知識における発展によって可能にされる。徳と知とを分離的に考えることは、行為を技術的・形成的行為として根本的に把握しないところから生ずるのである。ここに技術というのは、もとより単に自然に対する技術をのみ意味しない。むしろすでにいった如く、社会に対する技術が今日極めて重要な問題となっている。とりわけ政治はアリストテレスが考えたようにアルヒテクトニッシュな意味をもっている。即ちそれはあらゆる技術の目的となるような技術、他の技術に対して総企画的にその位置と関係を示す指導的な技術である。アリストテレスにおいて政治学と倫理学とは一つのものであった。人間は本性上「社会的動物」であるとすれば、政治学と倫理学とは離れたものであることができぬ。アリストテレスにとって政治の目的は、いかにして「善い国民」であることと「善い人間」であることとを統一するかということであった。人間は「善い国民」の意味において社会にどこまでも内在的である。従って仮に自己の属する社会が悪いとしても、その社会において与えられた役割を果し、その社会に仕えることが彼の義務であるといわれるであろう。しかしながら人間は同時に「善い人間」の意味においてその社会を超えたものである。自己の自発的な行為によって自己がその中にいる社会を善くしてゆくことが人間の義務であるといわねばならぬであろう。我々は社会から作られたものであると共に社会は我々が作るものである。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。かように矛盾があるところから形成的発展ということがあるのである。善い国民であることと善い人間であることとが統一されてゆくに従って、民族は世界的意味をもってくる。それによって同時に世界は世界的になってゆく。世界が世界的になるということが歴史の目的である。世界は開いたものとして到る処中心を有する円の如く表象されるように、世界が世界的になるということは無数の独立なものが独立なものでありながら一つに結び付いてゆくということである。それによって個別的なものがなくなるのではない。却って「形の多様性」は自然の、歴史的自然の意志である。
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# by rinnrrigaku | 2009-10-22 15:32 |
 しかし道徳は外的なものでなく、心の問題であるといわれるとすれば、そこに更に心の技術というものが考えられるであろう。心の徳も技術的に得られるのである。人間の心は理性的な部分と非理性的な部分とから成っているとすれば、理性が完全に働き得るためには非理性的な部分に対する理性の支配が完全に行われねばならぬであろう。この支配には技術が必要である。人間生活の目的は非理性的なものを殺してしまうことにあるのでなく、それと理性的なものとを調和させて美しき魂を作ることであると考えられるとすれば、技術は一層重要になってくる。心の技術は物の技術と違って心を対象とする技術であるにしても、それは単に心にのみ関係するものではない。この技術もまた一定の仕方で環境に関係している。即ち物の技術においては、技術の本質であるところの主観と客観との媒介的統一は、物を変化し、物の形を変えることによって、物において実現される、そこに出来てくるのは物である。心の技術においても環境が問題でないのでなく、ただその場合主観と客観との媒介的統一は、心を変化し、心の形を作ることによって、主体の側において実現される。かくして「人間」が作られるとき、我々は環境のいかなる変化に対しても自己を平静に保ち、自己を維持することができるのである。その人間を作ることが修養といわれるものである。修養は修業として技術的に行われる。しかしながら心の技術は社会から逃避するための技術となってはならぬ。身を修めることは社会において働くために要求されているのである。修業はむしろ社会的活動のうちにおいて行われるのである。我々は環境を形成してゆくことによって真に自己を形成してゆくことができる。いわゆる修業も特定の仕方において主体と環境とを技術的に媒介して統一することであるにしても、心の技術はそれ自身に止まる限り個人的である、それは物の技術と結び付くことによって真に現実的に社会的意味を生じてくるのである。
 技術的行為は専門的に分化されている。そして自己の固有の活動に応じて各人にはそれぞれ固有の徳があるといわれるであろう。大工には大工の徳があり、彫刻家には彫刻家の徳がある。徳とは自己の固有の活動における有能性である。しかるにかようなそれぞれの徳が徳といわれるのは、その活動が社会という全体のうちにおいてもつ機能に従ってでなければならぬ。各人は社会においてそれぞれの役割を有している。人間はつねに役割における人間である。各人が自己の固有の活動において有能であることが徳であるのは、それによって各人は社会における自己の役割を完全に果すことができるからである。無能な者はその役割を十分に果すことができぬ故に、彼には徳が欠けているのである。かようにして徳が有能性であるということは、人間が社会的存在であることを考えるとき、徳の重要な規定でなければならぬ。ひとが社会において果す役割は彼の職能を意味している。自己の職能において有能であることは社会に対する我々の責任である。物の技術において有能であることも、社会に関係付けられるとき、主体に関係付けられることになり、道徳的意味をもつに至るのである。
 各人が専門に従って有する徳はそれぞれ異っているであろう。しかるに徳はかように特殊的なものでなく普遍的なものでなければならぬと考えられている。大工が大工として有する徳が徳であるのでなく、むしろ彼が人間として有すべきものが徳である。かような徳は、彼の専門の活動がいかなるものであろうと、すべての人間に共通である。例えば、正直であることは、大工にとって必要であるばかりでなく、商人にとっても必要である。そこに技術的徳と固有な意味における徳とが区別される。徳は人間性に関わるもの、普遍人間的なものと考えられる。それは各人の固有な活動に関わるものでなく、人間の人間としての固有な活動に関わるものでなければならぬ。プラトンが技術的徳に対して「魂の徳」といったのはかようなものである。道徳は主体的なものに関係し、人間性というのもかようなものでなければならない。枝術的徳から区別して魂の徳というが如きものを考えることには或る重要な意味がある。しかしながらまたそれぞれ固有の活動に従事する人間を離れて人間一般を考えることは抽象的である。大工の人間は彼の大工としての活動を離れて考えられず、芸術家の人間は彼の芸術家としての活動を離れて考えられない。各人の固有な徳から抽象して人間性一般の徳を考えることは無意味であろう。技術的徳とは別に徳そのものを考えることは、道徳を単に意識の問題と見て、行為の立場から見ない抽象的な見方に陥り易いことに注意しなければならぬ。ゲーテが考えたように、技術は人間に対して道徳的教育的意味をもっている。ひとは彼の技術に深く達することによって人間としても完成されるのである。
 しかしながら他方、それにも拘らず、職能的専門家と人間とが区別され、技術的徳と魂の徳というが如きものとが区別されねばならぬところに、道徳の一つの重要な根拠があるのである。そのことは道徳の根拠が抽象的な人間性一般にあるということではない。人間はすべて個性である。そして専門家として技術的徳を具えることによって、各人の個性は形成され発達させられるということは事実であろう。しかしまた自己の専門は自己の個性に応じて自己みずからが決定し得るものである。そして個性の意味は専門家の意味に尽きるものではない。言い換えると、人間の人格は役割における人間の意味を超えたものである。役割における人間の意味を超えた個性が人格といわれるものである。人格といっても、すべての人に抽象的に共通なものがあるのではない。人格はつねに個性的である。ただそれが単に役割における人間とのみ見られない超越的意味をもっているところに人格があるのである。人間が主体的存在であるというのはその意味である。人間存在の超越性において人格が成立する。人格が或る超個人的意味をもっていると考えられるのも、そのためである。そこに技術的徳とは異る魂の徳というが如きものも考えられるのであって、それは人格的徳のことでなければならぬ。人間の主体性の自覚においてペルソナ(格人)とは異るペルゼーンリヒカイト(人格)が成立するのである。ペルソナはもと俳優が自己の演ずる役割に従って被る面を意味し、従って役割における人間のことである。人間は単に役割における人間でなく、人格である。人格として人間は単なる職能的人間を超えたものである。専門家として通達することによって彼の人間は作られるといっても、彼が単に専門家に止まっている限りそれは不可能であって、そこには専門にありながら専門を超えるということがなければならぬ。そのことは人間存在の超越性を示している。そしてそのことはまた、技術が人間の作るものでありながら人間を超えた意味をもっているということ、即ちそれが単に人間的なものでなく世界的・歴史的意味をもっているということを示している。人間の技術は自然の技術を継続するというのも、そのことでなければならぬ。そこでまた人間は形成的世界の形成的要素と考えられるのである。
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# by rinnrrigaku | 2009-10-22 15:31 |
 人間が表現的なものであるということは、簡単にいうと、人間が世界のものであるということである。その意味はあたかも、薔薇が自然を表現するといわれるのと同様である。自然とは生むものであり、薔薇は自然から生れたものとして自然を表現している。人間も世界から作られたものとして世界を表現している。この世界を自然といい物質というにしても、それは歴史的自然であり、歴史的物質である。表現的なものは歴史的に形成されたものである。人間は歴史的・形成的世界の形成物として表現的である。すべて表現的なものは個別的なものである。しかし単に特殊的なものは表現的でなく、表現的なものは一般的意味をもつものでなければならぬ。人間は世界的意味をもつものとして表現的であるというとき、世界は客観としての世界であることができない。表現的なものは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものであり、そこには内部が外部に現われるということがなければならぬ。この内部は単に心理的・内在的なものでなく、超越的意味をもつものでなければならぬ、真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ。
 もとより我々は無限定に世界を表現するのではない。表現するとは却って形成することであり、形成するとは限定することである。表現的なものは単に一般的なものでなく、特殊的に限定されたものである。我々は世界一般を表現するのでなく、却って個々の個別的社会を表現するのであり、個別的社会における個々の個別的関係を表現するのである。我々はそれぞれの場合において、或いは親子として、或いは友人として、或いは学生と教師として、それぞれ具体的な社会的関係を表現している。表現的なものは単に特殊的なものでなく、自己がそれにおいて他と関係する一般的なものを表現している。表現的なものは個別的なものであり、個別的なものは特殊的なものと一般的なものとの統一として、特殊的・一般的に限定されたものである。汝は表現的なものとして我に呼び掛け、我は汝から喚(よ)び起される、道徳的命令はつねに具体的に限定されたものである。「汝為すべし」ということはつねに一定の歴史的・社会的関係から出てくるのである。そこに表現されているのは社会的意味であり、道徳的意味充実はつねに社会的意味充実である。汝は汝自身を表現すると共に社会を表現する。社会は表現的なものであり、大なる汝である。社会はしばしば「大なる我」と看做(みな)されてきた。しかしかように考えることは、社会を単に我に内在的なものと考えることになるであろう。社会は超越的なものとしてむしろ「大なる汝」であり、我も汝も社会を表現するものとして我であり汝である。我と汝との行為的聯関の基礎にはつねに我と汝とがそれにおいて関係する場所としての社会がある。我と汝とは一つの環境、一つの社会、一つの場所にあって働き合うのであり、我々はつねに環境的に限定され、環境を表現している。社会は我々がそこにおいてある場所として、単に客観的なものでなく、主体的なものである。しかるに個別的社会も、単に自己自身を表現するのでなく、同時に自己を超えた社会、自己がそれにおいてある環境を表現するのであり、かようなものとしてそれは表現的といい得るのである。民族の如きも歴史的に形成されたものであり、自己自身を表現すると共に世界を表現している。世界といっても、世界一般があるのでなく、それぞれの時代における世界があるのであり、それらの個々の世界がそれにおいてある世界、絶対的場所としての世界を表現している。この世界は絶対的に主体的なものであり、過去現在未来における一切のものがそこから生じ、それにおいてある真の現在である。すべての歴史的行為はかような現在から起り、この世界を表現する。一切の歴史的なものはこの世界の主観的・客観的自己限定、特殊的・一般的自己限定として作られ、この世界においてある。かくしてあらゆる歴史的なものは歴史的であると同時に超歴史的である。我々は民族的であると共に世界的であり、民族に属すると同時に直接に世界においてあるのである。
 人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。人間は形成的世界の形成的要素として、世界が世界を作ってゆく中において作ってゆくのである。我々の道徳的行為もかような世界から把握されねばならぬ。そのことは、道徳というものが従来単に主観的に理解される傾向があったのに対して、特に強調される必要がある。もちろんそれは単なる客観主義の立場に立つことではない。主体であるところの人間がそこから作られ、そこにある世界は単に客観的なものであることができぬ。世界的立場は主体を超えた主体の立場であり、かようなものとしてまた最も客観的な立場であるということができる。世界は歴史的である故に、世界的立場は世界史的立場である。人間のすべての行為は歴史的である、それが歴史的であるというのは、行為が出来事であるということ、行為が同時に生成の意味をもっているということ、我々の為すものでありながら我々にとって成るものの意味をもっているということである。人間は形成的世界の形成的要素として、人間の行為はすべてかくの如き意味をもっている。我々の行為は我々自身から起ると同時に世界から起るのである。道徳的行為の問題も単なる意志の問題でなく、形成的・表現的行為の問題である。主体と主体との表現的聯関は行為的・形成的に捉えられなければならない。それを単に解釈する立場は道徳的立場ではない。道徳の立場は本来行為の立場である。主体が道徳的に表現的であるということは行為的に表現的であるということである。他の行為を喚(よ)び起すものとして、また他の呼び掛けに行為的に応えるものとして、主体は道徳的に表現的である。主体と主体との表現的聯関は、ただ理解され解釈されるために、既に出来上ったものとしてそこにあるのでなく、絶えず新たに歴史的行為的に形成されてゆくべきものである。道徳は人と人との行為的聯関であるといっても、それはつねに物を媒介としている。物の媒介を離れて人と人との関係を考えることは抽象的である。しかもその物は単なる物でなく、却って表現的なものである。人と人とは表現的な物を媒介として結び付くのである。文化というものは一般にかくの如き性質のものである。文化というものは人間の作るものでありながら、作る主体から離れて独立なものとなり、作る主体に向って逆に働きかける。文化は人間から作られ、逆に文化が人間を作るのである。文化は表現的なものとして超越的意味をもっている。それは私の作るものでありながら、私から離れて、もはや私のものでなく、公共的な表現的な世界に属している。人と人とは文化を媒介として結び付いている。物の形成、文化の形成を離れて人と人との行為的聯関を考えることはできぬ。
 世界的立場はもとより抽象的な世界主義の立場ではない。世界は歴史的であり、世界的立場は世界史的立場であるが、世界は民族を媒介として形成されるのである。しかし民族はまた世界を媒介として形成されるのである。すべての歴史的なものは環境においてあり、環境から限定されると共に逆に環境を限定する。個人は民族から限定されると共に逆に民族を限定する。民族は個人の行為を媒介として世界的になることができる。民族が世界的になるということは自己の本質を失うことでなく、却ってそれは自己の本質を発揮することによって真に世界的になるのである。個人もまた自己の本質を発揮することによって真に民族的になることができ、同時に真に世界的になるのである。歴史的なものはすべて個別的なものであり、個別的なものは一般的なものと個別的なものとの統一である。個人、民族、世界は相互に否定的に対立している、しかも否定は媒介であり、否定の媒介によって物は具体的現実的になるというのが弁証法の論理である。歴史は媒介的に動いてゆくのであり、弁証法的に媒介的である故に、そこに歴史的運動があるのである。
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# by rinnrrigaku | 2009-10-22 15:30 |

人生は前途洋洋である

 人生には、それぞれの時期にそれぞれの解決すべき悩みが誰にでもある。
 幼少期には、幼少期に解決すべき課題がある。小さい頃には仲間と群れて遊び、社会性を身につけなければならない。社会性を身につければ、孤独を意識しないですむ。そして、自分は自分。他人は他人。と感じられるようになり、自我の境界線の確立もできるようになる。
 まさに、人生は前途洋洋だ。
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# by rinnrrigaku | 2009-09-23 08:54 |

わが道

”なぜ自分には教えてくれなかったのか”。ひとり蚊帳の外に置かれた寂しさに、不満の言葉がつい口をついて出る。あるいは周囲の目に自分がどう映っているかが気になり、人のささやきがすべて自分の悪口のように思えてしまう。
さまざまな人とともに日常生活を送るなかで、お互い、ふとしたことで疎外感や不信感に襲われることがある。ほんとうは、自分が一方的にそう思い込んでいるだけで、周りにそんなつもりはないのかもしれない。けれども、いったん思い込むと、疑いが疑いを呼び込み、ますます深みにはまっていく。
だが、他人のことなど気にすることはない。周囲を顧みない自分勝手な振舞いはもちろん許されないが、他人に迷惑をかけたり、間違った言論を正当化することも許されない事実だろう。
それが事実なのだが、そうした思いに立ってこそ、いたずらに周囲に気を取られることのない、自分らしい生き方が可能になるといえよう。
誰が何と言おうとかまわない。わが道を、堂々と、坦々と行けばよいのである。
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# by rinnrrigaku | 2009-06-10 16:43 |