人気ブログランキング | 話題のタグを見る

倫理学


by rinnrrigaku
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

宗教観

宗教に関しては、自分の論文はしばしば『哲学雑誌』および『東亜の光』等に発表したので、今くわしくこれを論ずるの暇はないけれど、畢竟、理想的倫理的の宗教を最も進歩したる宗教として主張したのである。宗教の発展の過程を三段階に分けて考えることができる。第一段階の宗教は原始的の幼稚なもので、道徳観念がはなはだ乏しくして、倫理上から見て無価値といっても差支えないくらいである。むしろ倫理道徳に反した残酷なことが多いくらいである。それがいっそう発展すると、民族的宗教となってだいぶ倫理道徳の要素が加わってくる。けれどもまだまだ倫理道徳に無関係なことが大部分を占めている。倫理道徳の要素は十中の三か四ぐらいのものである。ところが、宗教がもういっそう進んで、第三の段階に入ると世界的宗教となって、倫理道徳の要素が十中七、八ぐらいに進んでくる。宗教の進化発展は主として倫理道徳の要素の増進すると然らざることにあるので、今日文明教として最も勢力を有している仏教だのクリスト教だのいう宗教はこの第三段階の宗教で、人によってはこれを倫理教ともいっている。しかしながら、仏教だのクリスト教だのにしても、まだ幾多の迷信を伴ってきているので、哲学上から見れば、今日および今後の宗教としてあきたらぬところが多い。そこで歴史的に考察するときには宗教に三段階があるが、なお将来の宗教如何を考察するときには純然たる普遍的世界的の理想教または倫理教が興ってこなければならぬ。人によっては仏教だのクリスト教だのを倫理教というけれども、将来の宗教はいっさい迷信を除き去った純然たる倫理教でなくてはならぬ。いいかえれば、純然たる普遍的世界的の理想教を要求する次第である。カントは宗教哲学においてはやはり三段階を立てている。第一の段階は根本悪の時代で、その中に善に傾向する素質(Anlage)はあるけれども悪の方が勝っている。つぎは善悪混戦の時代である。そのつぎは善が悪に打ち勝って純然たる善の時代となった時をいうのである。これを純善の時代と名づけたならばよかろう。このカントの純善の時代がすなわち理想教または倫理教の時代である。自分は仏教に対しても多大の興味を有しており、その影響を受けたこともまた少なくない。またクリスト教の道徳思想に対しても崇敬の念を抱いている。であるから、すべての点において、仏教に対してもクリスト教に対してもけっして反対ではない。しかしながら、全体からいうと、純然たる仏教徒でもなければまた純然たるクリスト教徒でもない。哲学上から見て、一般的普遍的宗教の立場にあるのである。それで仏教といわず、クリスト教といわず、その他いかなる宗教といわず、すべて理想教たる倫理教の趣旨に合する点はこれを信ずるけれど、多大の迷信を伴っているところの過去の遺物は全然これを排斥するのである。神道はもとよりわが国の民族教であるけれども、一面これを純粋化し、深刻化し、広大化し、真に最後の倫理的理想教たらしむることは果してできないであろうか。これ今後の研究に属する問題である。
 いったい、倫理と宗教と、かように人を律する二種のものが併立しているのは、過渡時代の変態で、この両者は畢竟理想教たる倫理教において統一せらるべきもので、すなわち今日の倫理をずっと宗教化し、今日の宗教をずっと倫理化して、そして畢竟今日の倫理および宗教より進んだ立場に帰着すれば、おのずからそれが理想教たる倫理教となる次第である。今日の倫理のあきたらぬところは、あまりにそれが宗教的情操を欠いているからである。倫理に関する知識としては成立しておっても情意の側においてはなはだ無勢力であるというのは、宗教的色彩のきわめて貧弱なるがためである。
# by rinnrrigaku | 2009-06-03 18:10 |

人生哲学

つぎに人生哲学の方面より考察してくると、こういうことになる。進化論者の側においては、二つの根本欲を立てて説明してくるのである。その二つの根本欲は生存欲と生殖欲とである。これは動植物を通じて応用せらるるのである。もとより人間もこの範囲を出でないものとして説明されているが、この点において自分はちがった考えを持っている。この点においては進化論の側からは人間の人間たる所以が説明されていない。すなわち人間の他動物と異っている特色をあきらかにすることができていない。かかる進化論者の学説がよほど広く学界に影響して、そして物質主義、功利主義、機械主義、本能主義というような主張となっていると考える。自分はどうしてもモー一つこれとちがった根本欲があるものとしなければならないと思う。それで生存欲と生殖欲はこれを自然欲(Naturtrieb)と名づけて、それ以外に智能欲(intellektueller Trieb)というものを、一つの根本欲として立てなければならぬ。これは自然欲に対する精神欲である。この精神欲を暫く知能欲と名づくるのであるが、それはまた発展欲もしくは完成欲と名づけてもよい。すなわち精神的発展を遂げる本能が人間にそなわっている。ところが人間には知情意という三方面の精神作用があるがために、その知的方面が発展してきたところに、あらゆる学術が興っている次第である。自然科学、哲学、すべての学術である。学術は真理をあきらかにすることを目的としている。理想は真理の全体を闡明(せんめい)することである。情の満足は美の全体を表わすことで、至美すなわち絶対美に到達するにあらざればとうてい満足することはできない。そこに芸術が起っている。芸術の目的は美の理想を実現するにある。意は善の実行をもって目的とするので、したがって道徳的行為の関するところで、最高善または至善というのが、その終極の目的である。知情意三方面とも、いずれも理想、目的がある。知は真をもって理想とし、情は美をもって理想とし、意は善をもって理想としている。しかし真善美の理想は終極するところ一つの理想すなわち人生終極の理想で Sollen の因って生ずるところである。この究竟の目的たる大理想は、実在を説明原理として見ないでこれを前途に擲(な)げ出して人間行動の標的としたときに、構成されるので、彼と此とは畢竟一つのものと見るべきである。このことについてはかつて『哲学雑誌』にある程度までは論じておいたつもりである。
# by rinnrrigaku | 2009-06-03 18:09 |

現象即実在論

哲学の側においてはつとに「現象即実在論」を唱道して、しばしばこれを『哲学雑誌』において論じたのである。実在論の種類は古来いろいろあるけれども、そのようなことはしばらくおいて、本体としての実在に関する見解は、だいたい三段階を経て進んできているのである。第一の段階は一元的表面的の実在論と名づけたならばよかろうと思う。これは現象そのものをそのまま実在と見る立場であって、素朴的実在論はこれに属するのである。これは実在論としてもっとも低級な立場であって、これをもって満足し得らるるものでないから、いくばくもなく現象と実在とを分割して、現象は表面のもの、実在は裏面のものとして、実在を現象の彼岸に在るものとして立する立場をとることになる。ちょうど舞台と楽屋のように表面裏面の二方面を考えて説くのである。現象が舞台なれば実在は楽屋である。これを二元的実在論といったならばよかろうと思う。この見方は前の一元的表面的実在論に較(くら)ぶれば、ずっと分析的に進んだ見方であるけれども、実在を空間的に考うるところに非常な誤謬がある。現象を空間的に考えるのは差しつかえないけれども、現象を超越したる実在を現象と同じく空間内に引き入れて考えるということは、矛盾の甚しいものである。けれども、とかくしらずしらずそういう誤謬に陥っている思想家が多い。ドイツの哲学者は hinter den Erscheinungen, 英国の哲学者は behind the phenomena といっている。
 かかる実在論に対して、自分は融合的実在論の立場をとって、これを「現象即実在論」と名づけたのである。「現象即実在論」というのは、現象そのものをただちに実在とする第一段階の実在論とは大変にちがうのであるから、けっして両者を混同すべきではない。「現象即実在論」は融合的実在論のことである。しからばこの融合的実在論というのはいかなる種類の実在論であるかというに、現象と実在とは分析すれば二種のちがった概念となるけれども、事実上においてはけっして空間的に分離されているものではない。この概念上から見た分析と事実上から見た事実的統一と、この混同を避けることが世界の真相を理解する上に非常に重大なことであるけれど、これが普通世の思想家によって全然看過されている。時あって、かかることに気づくことがあっても、全体からいえばそうでもない。とかく混同されている。ところが現象と実在との関係はいいかえれば、差別と平等との関係である。世界の差別的方面を現象と称し、世界の平等的方面を実在と称するので、差別即実在というのがこの現象即実在の考えである。これをわかりやすくいえば、現象は差別によって成立している、差別すればどこまでも差別してゆけるもので、世界のあらゆる現象はそれぞれ特殊性をもっているもので、二つの現象として全然同一のものはない。まず空間的にもしくは時間的に差別されている。そのうえに諸種の特殊性がそなわっているもので、この差別をあきらかにするのが認識の作用として一つの重大なる効果をもたらしているけれども、世界のあらゆる現象を通じてまた平等の方面がある。いかなる現象といえども特殊性はあるけれども、全然他の現象と異っているものではない。いいかえてみれば、あらゆる点において根本的に差別されているものとはいえない。いっさいを包括してそれを現象という点からみても、いっさいの現象に共通性のあることは予想されているのみならず、また現象の中に、共通性の多大なものがある。それらが分類され統一されて、ここに特殊の科学的組織ができる次第である。そのすべての現象に共通性のあるというのはすなわちその平等の方面である。一方面から見れば千差万別であるけれども、他方面から見ればすべてを通じて共通した平等的方面がある。いかなるものもそれが物質的のものならば必ず元素から成り立っている。元素は原子から成り立っており、原子は電子から成り立っている。物質的のものは複雑な現象を呈しているけれど、一として元素より成り立っておらぬものはない、原子より成り立っておらぬものはない、電子より成り立っておらぬものはない。しかしなお押し拡げて精神現象までこめて眺めてみるも、平等的方面がある。すべての現象は活動的のものである。こうみても複雑なる差別的方面のあるとともに、単純なる平等的の方面を否定するわけにいかぬ。現象と実在とは同一物の両方面で、事実上においてはけっして分離されているものでなく、現象は実在とともにあり、実在は現象を透してあり、現象は実在を離れてあるものでなく、現象のあるところに実在があり、実在のあるところに現象がある。それであるのに現象の彼岸に実在があるように説くのは、人をして世界の真相を誤解せしむる所以(ゆえん)である。また実在を認めないで、現象をもって実在となし、現象以外に実在なしとするのは俗見であって、哲学的の見地から見て甚だ幼稚なものである。それでこの第三の実在論の立場は現象と実在というこの二つの対立を超上してすなわち aufheben して、真実一元観に達する次第で、これを円融相即の見解というべきである。
 科学的進化論のごときは、われわれもこれを真理と見るけれど、これによって哲学の全体を蔽うわけにいかない。というのは科学的進化論はただ現象界のことにのみとどまる。そもそも進化はまず動的状態を予想して初めて説くべきであるから、哲学は進化以上の根本原理にさかのぼらなければならぬ。この第三の融合的実在論は実在論として終極のもので、どうしても実在論というものは、畢竟ここに至らなければならないのである。ところが、カントでさえもやはり現象を実在の彼岸に在りしとして、現象界にのみ応用さるべき空間の図式を、現象界の彼岸に応用して実在を多数と見て(Dinge an sich)分量の範疇をこれに応用したことは、たしかに矛盾といわなければならぬ。現象は活動的のものであるが、活動的のものはただ活動ではなくして、必ず法則的に活動せざるを得ない。法則的に活動するよりほか、活動は可能でない。その法則的という方面は永久不変のもので、すなわち常住的のもので、そこに古今にわたり、東西に通じて、一定した方面がある。これが根本原理で、すなわち絶対というべきものである。この根本原理は静止的のものである、これがすなわち実在である。実在は静的であり、現象は動的である。その動的の方面を現象とし、静的の方面を実在とするので、動静不二、両者は全然同一体の両方面に過ぎないのであるが、思想家によっては単に動のみを力説する人がある。クローチェのごときは絶対運動として世界を見る、これはヘーゲルからきた考えであろうが、ヘーゲルも同じく絶対理性が永久に発展してゆく考えであるが、絶対としては発展の余地のあろうはずがない。また動という方面があれば必ず静という方面がなければならぬ。概念としては一方のみあって、その反対を否定するわけにいかない。この一般法則的状態がすなわちロゴスと名づけられてきたもので、これの世界的経営の上から見れば叡智ともいうべく、これを目的行動という方面からいえば Sollen ともいうべく、人間終極の理想ともいうべきである。
 認識はただこの現象のみについて成立し得るものである。しかしそれは経験的認識である。超越的認識はこの実在に関する認識である。畢竟認識も超認識的認識すなわち叡智とならねばならぬ。経験的認識はどこまでも差別性を離れないものである。それで実在を対現象的に見たときは、いつのまにか実在を差別視しているのである。実在は経験的認識を超越したものである、すなわち不可知的である。世界の真相は現象と実在との差別観を超越したところにあるのである。真の認識すなわち叡智はその超越界に関する次第で、悟りの境涯となってくるのである。
# by rinnrrigaku | 2009-06-03 18:08 |

処女性に価値はあるか?

たとえば、少し前までは、女性が処女を守るということが当然の価値として重んじられました。「結婚までは綺麗な体でいたい」などという表現がとられたものです。これは、一見、身体に思いを込めているようですが、現在では、まったく逆なようです。異性と接しないことに価値を見いだすということは、むしろ精神や内面に人の「本当の値打ち」をおくことを意味しています。つまり性の自然が示す暴力的な力に対抗して、禁欲の意志という精神的な営みを刻印することに大きな意義を認めようとすることです。

男女がお互いに心から愛し合い性交するからこそ、女性の綺麗さは磨かれるのです。
# by rinnrrigaku | 2009-05-28 08:46

上手な会話

相手によっても違いがありますが、誠心誠意を持って会話をすれば必ず相手もわかってくれます。
話をしてて聞いた内容を鵜呑みにしないこと。
例え、他人の評価は低いけれど、実際にその人と話をすればその話は嘘かデマかわかります。
先入観だけで他人と付き合わないことも重要。
人の悪いところを見てしまうと、それだけで相手を嫌いになってしまうところがある。
逆に、他人のいいところを見るようにすれば、相手に好感を持つようになる。そうすれば、相手も自分も気持ちよく、幸せになれるのではないでしょうか。
大人の男だから自分でできるところは自分でやれ!といった価値観が男にはあります。だから、僕は友達とはお互いに干渉しすぎないんです。
何事も常識ある大人なんだから自然体で接するのがいちばん良い人間関係を築ける。とふだんから考えてます。
# by rinnrrigaku | 2009-05-28 02:45 |